« 花を看、還た花を看る | トップページ | 世相に関する書簡 »

『WB』に触発されて中上健次を想う

 今更ながら数日前、本郷生協にて『WB』(『早稲田文学』のフリーペーパー)のvol.12、2008年春号を求める。サイトで本郷で配布している(駒場には設置せず)ことを確認済みだったので店内で探したところ見つからず、店員に改めて確認すると、『WB』の存在を誰も知らなかったらしい。結局、奥を探してもらって入手することができたが、冊子を置いていること自体を認識していなかったのは、本郷の客はそもそもこういうものに興味を示さないゆえであろうか。

 中身を見ると、ロブ=グリエ追悼記事などが並ぶ中(彼についてはいずれ触れたい)、大杉重男のコラム「『AIR』をやってみた」が人目を引く。「鳥の詩」に興味を持った著者が『AIR』原作をやってみた、というところから始まる話である。周知の通り――とこのブログの読者に言ってしまってよいのであろうか――『AIR』は、平安時代に信仰を統一するために高野山で抹殺されたとされる「翼人」なる存在の転生である美少女が、その翼人の呪いによって原因不明の病で主人公を前にして死んでいく、とでも要約される物語を中心に置いたゲームであり、アニメ化によって2000年代中期に好評を博したことでも名高い。いわゆる泣きゲーとして知られる本作であるが、作中に現れる転生と夭折というテーマやカラスのモチーフ、さらに紀伊半島と目される舞台から、大杉は中上健次のことを想起する。

「紀州」と言うと何でも中上健次を連想してしまう私にはこの舞台設定はただごとに思えなかった。実際転生しては「翼人」の記憶の重みに耐えかねて夭折して行く美少女たちのイメージは、『千年の愉楽』の中本の一統の若者たちに通じるところがないだろうか。『千年の愉楽』にはオリュウノオバという記憶装置があったが、『AIR』ではあらゆる記憶装置が焼き尽くされた後、それでも残る記憶についての記憶が孤独に空に漂い続ける。

実を言えば、私も京都アニメーション版のTVシリーズを見た際に同様に中上のことを考えたことを記憶している。とはいえ、ここでは別に着想のプライオリティを主張するつもりはない。私が考えるのは、ここ数年の日本のサブカルチャーにおいて中上的モチーフを散見することが一度ではなかったことである。
 昨年(2007年)の夏、乱交に発展する三角関係とバロック的に陰惨な復讐劇の描写によって注目を集めたアニメに『School Days』がある。最終話直前に起こった殺人事件の影響で一時的にTV放映が停止されたことも記憶に新しい。が、ここでは『School Days』それ自体ではなく、この作品の置かれたコンテクストのことを話題にしたい。『School Days』も『AIR』同様に18禁ゲームを原作とするアニメであるが、この制作会社によるゲームはすべて連作として登場人物の人間関係を共有しており、ほとんどの人物は『School Days』の主人公・伊藤誠の父親である沢越止なる人物の血縁であり、ほとんどすべての恋愛が意識的・無意識的な近親相姦として行われる、という文脈が存在するのである(アニメ放映中に某動画投稿サイトにアップされた解説動画の示唆による)。原父(フロイト『トーテムとタブー』)的とでも形容し得る超越的な父の存在、その君臨の下で行われる近親相姦と殺人、視点を変えつつそれを描いていく連作としてのサーガ、といった要素は、言うまでもなく中上健次と共有されているものである。大杉の言うように『AIR』が『千年の愉楽』から『奇蹟』に至る中本の一統の物語であるとすれば、『School Days』は『岬』・『枯木灘』・『地の果て至上の時』の秋幸三部作に比較することができよう。
 中上健次は、19世紀にバルザックによって整備され20世紀前半にフォークナーによって洗練された、あるトポスを連作小説の舞台として設定し同一人物再登場技法によってその中で神話的サーガを構築するという方法を、自身の故郷である南紀において駆使することで小説を書き続けた。今、アニメや美少女ゲームにおいて中上的なサーガが復権しているとすれば、それは何を意味するのであろうか。最も想定される回答は、中上は自身「物語作家」を名乗ったことからも明らかである通り生涯を通じて物語に接近したのであり、純文学とは異なって物語に対する抑圧の存在しないサブカルチャーにおいて中上的世界が展開するのは極めて当然ではないか、というものであろう。中上の晩年の小説『異族』や漫画原作『南回帰線』に「構造しかない物語」を見出し、それにサブカル的見地から肯定的評価を与えようとする議論(『新現実』vol.5における柄谷行人・大塚英志の対談での大塚の発言を参照)に与する者であれば、そのような判断を下したとしても不思議ではあるまい。
 しかし私が注目したいのは、『AIR』や『School Days』が、神話・物語としての中上サーガのみならず、神話・物語批判としての中上「小説」をも継承しているように見える点である。『AIR』において「翼人」が王朝時代に朝廷に抹殺された異端信仰の対象であったという虚構の歴史が持ち出されていることは、浜村孫一という架空の武将を介して中上が一向一揆の敗北と被差別部落の起源の因果関係を示唆しようとしたことと同様、歴史性の導入によって「構造しかない物語」からの脱出を試みているということができる。またアニメの『School Days』においては、網の目のような血縁関係の外部にいる唯一の登場人物である桂言葉のみが最終的に主人公の愛を勝ち得た上で復讐劇を生き延びるに至るのであり、このことは近親婚と報復的殺人に彩られた神話世界に対する批評として機能しているのである。(※)
 ゆえに、サブカルチャーにおいて中上健次的世界が反復的に顕現していることを、中上による物語の復権の関連で説明することは、多分に妥当性を欠いている。たとえ単なる文化商品として消費される作品であったとしても、無批判に物語を垂れ流すだけでは、戦慄的なまでに強烈な印象が誕生することはありえない。現代日本のサブカル作品のうちの優れたもののいくつかが中上を継承しているとすれば、物語を臆面もなく展開する一方で物語に対する批判を忍び込ませずにはいられないという、物語(構造)と物語の外部(歴史)との弁証法をこそ継承しているのである、とさし当たっては結論付けるほかあるまいと思われる。

※ ちなみに、桂「言葉」という命名は示唆的である。言葉=ロゴスのみが神話(ミュトス)的血縁関係を超越するのであり、神話に拘束された「世界」を脱出した暁には、ロゴスのみが愛されねばならない。父権的ロゴスの最終的勝利...。

|

« 花を看、還た花を看る | トップページ | 世相に関する書簡 »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/23019/41384505

この記事へのトラックバック一覧です: 『WB』に触発されて中上健次を想う:

« 花を看、還た花を看る | トップページ | 世相に関する書簡 »