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花を看、還た花を看る

4月某日

 花見を兼ねて下総国相馬郡・布施弁天(紅竜山東海寺)に参詣。乗り物に乗っていく距離ではないので、多少は歩くことになる。

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▲左:布施弁天の山門、右:同本殿

布施弁天は関東三大弁天の一つということで、周辺住民以外にも多少は知られた場所かもしれない。赤松宗旦(1806~1862)の『利根川図志』に記載があるので、参考までに引用しておこう(漢字は新字体にて失礼)。

布施弁才天社
布施は江戸より松戸小金を経て、水海道へのゆくてなり。田中に孤山あり。古は湖中の島なりとぞ。弁財天を祀る、東麓に窟(いはや)あり。別当を紅竜山松光院東海寺といふ。真言宗常陸国大塚護持院末なり。寺宝に蟠竜石あり。此処は関東三弁天の一にして、諸人群集し、戸頭の渡舟を望み、曙山の桜楓を眺めて、頗る勝景と称するに足れり。
縁起云、昔大同二年七月七日の朝、湖上に紅竜現れ、一の塊(つちくれ)を捧げて島を作る。天地振動し夜々光明あり。天女里人の夢に入りて、但馬国朝来郡筒江郷より来れる事を告ぐ。覚めて光を尋ね窟に入れば、長三寸余の尊像あり。乃ち藁萱の小祠を建つ。その頃弘法大師の経過に値ひてこの事を語る。即ち大師嚮(さき)に筒江に於て刻する所なり。乃ちこの寺を造り、山を紅竜と命(なづ)け里を天女の利益に資りて布施と命く。かくて帰洛の後、嵯峨ノ帝に奏聞し、弘仁十四年田園を寄附し、伽藍を造営す。然るに承平年中、将門の兵火に遇て衰廃す。経基王武蔵守となりて尊像即ち袖に移り給ふを奉持し、天慶三年二月、将門伏誅の後この寺を再興し、院を松光と命く。今の本堂は享保の初法印秀調が建つる所なり。(取意○按に経基王武蔵守に非ず、介なり。将門記に武蔵守興世王介経基王と見えたり)。この社地に於て八月朔日毎年風祭相撲あり。又巳ノ年の三月は必開帳あり。(岡村の延命寺に埋めたる土偶及び駒塚に埋めたる土馬、もとは此処に在りし物なる事、相馬日記三に見えて、葬送の具なるべき由いへり)。
玉椿昼と見えてや布施篭り 其角
白藤と春は拝まれ布施の森 慎我
赤松宗旦著、柳田國男校訂『利根川図志』岩波文庫、1938年、110~111頁

 要するに、布施弁天は大同二年(807年)の創建と伝えられ、空海の彫った彫刻が当地に顕現したという伝説を縁起譚として持つ寺であるということである。将門云々を含めここに書かれている伝承の史実としての当否を判断する能力はないが、それなりに由緒正しい寺であることは確かであろうと思われる。花見や紅葉で賑わうのは江戸時代からのことらしい。私は昔から習慣的にこの辺りを散歩してきたが、引用されている宝井其角らの句にもあるように、春や秋に限らず各季節の花が植えられているのは今も変わらない。
 ちなみに、この赤松宗旦の本は江戸時代後期に書かれたもので、利根川流域の地理と民俗を記したものである。本来ならばマイナーな存在であってもおかしくないこのような書物がきちんと校訂されて出版され、しかも岩波文庫の一冊として安価に売られているのは、少年時代このあたりに移り住んで『図志』を愛読していた松岡國男が民俗学者柳田として大成した後、先駆的業績として高く評価したためであって、近隣住民としてはこの偶然に感謝せずにはいられない。

4月某日

 また花を見に、早起きして今度は手賀沼に赴く。

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▲共に春の手賀沼の様子

この日については特筆すべきことはなし。

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